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[[小説]]>短編小説

*ある告白   玉生洋一 [#n0d58e81]


 大山俊行は十三階建てのビルの下をうろうろしていた。
 このビルはマンションである。この中では、多くの家族が生活している。
 俊行は、その中のある女の子に一目惚れしてしまったのだ。
 一目惚れなんて信じないという方もいらっしゃるだろうが、惚れてしまったものは仕様がない。事実、その子は長年俊行が心に描いてきた理想その物だったのだ。
 これで惚れない方がどうかしている。
 犬を散歩させている彼女をたまたま見かけた時、俊行は夢かと思ってほっぺたをつねり、その痛みが頭に伝わった瞬間、告白することを考えていた。
 早すぎるということはない。何しろ、これほど自分の理想にぴったりの女性は、これを逃したら出会えるかどうか分からないのだ。生まれて初めての告白であったが、躊躇する理由は何もなかった。
 しかし、それだけに失敗したらえらいことである。俊行は、綿密な計画を立てることにした。
 まず彼女のことを調べた。名前は龍崎陵子。意外なことに、俊行と同じ高校に通っていることが分かった。クラスは違うものの、学年も同じ一年生であった。
 なぜ今まで学校でこの子の存在に気がつかなかったんだろう。そう俊行は悔やんだが、その分、早く告白する必要性にかられた。
 同じ学校だという接点があることが分かったのだから、何らかの方法で徐々に近づくという手もある。しかし俊行は、そんなまどろっこしい方法は嫌だった。決して自信がある訳ではないが、彼女との間に何か運命的な物も感じていたのだ。
 さあ、名簿を見て住所も電話番号も分かった。どうやって告白したらよいものだろう。
 一番手っとり早いのは電話をかけることだ。だが、問題があった。相手が自分のことを知らないということである。いたずら電話だと思われて、切られてしまったらかなわない。そうでなくとも、電話口で「付き合って」と言ったところで、「声が気に入ったからいいわよ」と言う人もいないだろう。結局、電話は呼び出す手段位にしか使えない。俊行はそう考えた。
 呼び出すのであれば、電話より手紙の方がよい。気持ちも整理して書くことが出来るので、伝えたいことがすべて伝えられる。しかし、これにも問題がある。物的証拠が残ってしまうことだ。手紙と言うものは、情熱を注いで書けば書くほど、後で見た時に恥ずかしいものなのだ。彼女はもしかして、将来芸能人になるかも知れないではないか。「昔貰ったラブレター」とかいう番組にでも出られたら、恥を日本中にさらしてしまう。
 俊行は想像力がわりと豊かな方だった。
 やはり直接会って言おう。いらぬ心配をした末に、俊行は決心した。そして、陵子の住むマンションの前までやって来たのである。
 さすがに緊張していた。心臓の音が聞こえるほど胸が高鳴っている。
 しっかりしろ。死にそうに緊張しているが、別に死にに行くわけではないのだ。俊行はそう心で呟くと、右のポケットから一枚の紙を取り出し、もう一度さっと目を通した。昨日一晩かかって書いた計画書である。
 完璧な出来だ。
 夜に書いた物は、どこかに不備があるというが、書き上がってから八時間の睡眠をとり、起きて見直してから清書したのだ。ぬかりはない。俊行は会心の笑みを浮かべた。
 恋の告白が失敗した場合に一番嫌なのは、「あの時ああ言っておけば良かった」と後で思うことだろう。この計画書がある限りそんな後悔はない。
 すべての状況を想定し、それごとに今の俊行の考え付く最高の言葉が書かれている。
 まさに全力投球である。
 仮にこの告白が失敗に終わったとしても、俊行は純粋に悲しむだけで、決して悔やんだりはしないだろう。
 もはや、うまくいくか否かは陵子次第なのだ。自分はやるだけのことはやったのだ。俊行にはそういう自負があった。明日の自分が泣いていようと笑っていようと、悔いが残ることは絶対にない。
 後はぶつかるだけである。
 俊行は計画書をしまうとマンションの入口を伺った。
 このマンションはオートロックである。自由に出入りすることは出来ないのだ。インターホンで呼び出すというのにも、ためらいがあった。そこで俊行は、彼女が毎日夕方になると犬の散歩に出てくる事を突き止めた。そこをで呼び止めて、一緒に道を歩きながら告白する計画なのである。
 俊行は緊張を押さえながら、じっと陵子の出てくるのを待った。陵子が出てきたら、通りがかりを装って「可愛い犬ですね」と話しかける予定だった。わざとらしい近づき方ではあるが、どうせ後ですべてを告白するのだから構わないのである。それなら最初から本題に入ればいいじゃないかと思われる向きもあろう。しかし敏之の計画は、徐々に本題に入っていってその反応を見ながら告白の方法を微妙に変えるという、実に手の込んだ物であった。
 何しろ俊行は、彼女と直に話したことが一度もない。だから、告白に入る前の会話で彼女の好みを掴まなければならないのだ。また、情報によると彼氏はいないということだが、学校の友達には内緒で付き合っている男がいるかもしれない。できれば、その点も告白の前にはっきりさせておきたいところである。
 その時マンションの入口の自動ドアが開き、子犬が愛らしい声と共に顔を出した。
「来た!」俊行の胸は高鳴った。紛れもない彼女の飼い犬である。しかし、それを連れて出てきた人物は陵子ではなかった。
 少し頭の薄い中年男。今日に限って、彼女の親父さんが犬の散歩を買って出たらしい。
 何てこった。早くも計画失敗か。俊行がそう呟いた時、入り口から誰かが出てくるのが見えた。
 陵子だった。
 俊行はとっさに物陰に隠れた。心臓がいつもの百倍の血を抽送していた。
 どうやら一人で出掛けるところらしい。俊行はそっとその後についていった。
 歩きながら俊行は考えた。気付かれないで済んだようだな。彼女はどこへいくのだろう。ただの散歩だったらいいのだが、何か大事な用があって出掛けるのなら、おれに構っている時間があるかどうか分からない。もう少し様子を見よう。
 俊行は慎重な男なのだ。まあ、生まれて初めて他人に愛を打ち明けようというのだから、慎重になるのも無理はないだろう。
 最初から計画が狂ってしまったが、俊行は慌ててはいなかった。かえって犬がいなくて好都合だと思った。俊行は幼い頃手を咬まれて以来、犬が苦手だったのだ。もちろん子犬なら怖くはないのだが、いないに越したことはない。
 陵子の後をついていくと公園に着いた。俊行はこれは好都合だと思った。陵子と話しながらこの公園に来るつもりだったのである。もう夕暮れが近いので数人の子供の他に人影は見あたらない。誰かと待ち合わせをしている様子もなかったので、俊行は意を決して陵子に声をかけることにした。
 犬を連れていないので、声のかけ方を変更しなければならない。俊行が二番目に考えていた方法は、「今何時ですか」と聞いた後、「あっ、もしかして二組の龍崎さんじゃ……」と、話を持っていくという、更にわざとらしい方法であった。
 俊行は深呼吸を一回すると、高鳴る心臓を必死に静めながら陵子に声をかけた。
「すいません。今……」そこまで言った瞬間、俊行は自分が重大なミスを犯していることに気づいた。
 俊行達はちょうど大きな時計台の下に立っていたのだ。
 しまった。何てこった。俊行は今度は本気で焦った。陵子は振り返り、俊行を見つめている。
 早く何か言わなくちゃ。俊行は必死で台詞を探した。頭が混乱した。あと三つほどは代わりの台詞を考えておいた筈なのだが、焦ったせいですべて吹っ飛んでしまった。
 いかん。どうしようもない。こうなったら計画を変更してもう本題にはいるしかない……。
 そう俊行が思った時、突然陵子が口を開いた。
「あなた、大山くんでしょ」
 俊行は驚いた。
 確かに今、彼女は自分の名前を言ったのだ。彼女はおれのことを知っていたのだ。俊行は嬉しさで飛び上がりそうになるのを押さえ、わざと平静を装って言った。
「確か……、龍崎さんだったよね。僕のこと知ってたの?」
「そりゃあ同じ学校だもの。でも、偶然ね。こんな所で会うなんて」
 俊行は、陵子が自分のことを知っている可能性は無に等しいと思っていた。だいたい、俊行は特に目立つタイプではない。学芸会では落ちてる岩の役で出たくらいである。同じ学校だからといって、他のクラスの人に名前を覚えられるような男ではないのだ。
 そんな自分をあこがれの人が知っていてくれた。それは、俊行にとって夢のような事実であった。俊行は純粋に喜んだ。そして頭の隅で、これで計画表の半分はいらなくなったと思った。
 俊行は、話が途切れてはいけないと思い続けた。「龍崎さんは、どこか行くとこなの?」
「ううん。ただの散歩よ。いつもは犬の散歩に出るんだけど、今日はお父さんが連れて行っちゃったの。大山くんは?」
「僕も散歩さ」
 白々しく言いながら、俊行は計画を次の段階に進めることを考えていた。何気なく会話を進めていって、脈があるかどうかを見極めるのである。その前に、彼氏がいるかどうかも確かめなければいけない。
 俊行は陵子と歩きながら、しばらくは学校の話をした。幸い、もうすぐ予定されている文化祭などの話題で会話は弾んだので、折りを見て俊行はこう聞いてみた。
「龍崎さんは文化祭のミスコンにはでないの?」
「そんな、あたしなんて出たって駄目よ」
「そうかなあ。いい線いくと思うけど……。あっ、そうか。出ちゃ駄目だっていう人がいるんでしょ」
 これが、俊行が知恵をふりしぼって考えた「彼がいるかどうか聞き出す」作戦であった。自然だし、ちょっと相手の自尊心をくすぐる完璧な作戦である……と、俊行は思っていた。
 陵子は笑って答えた。「そんな人いないよ」
 俊行は嬉しくなってきた。計画がこんなにいい方ばかりに進むとは、思ってもみなかった。ろくに話も出来ない場合まで予想していたのに、こんなに話ができた上に、彼氏がいないことまで聞き出すことができるとは。おまけに話は恋愛関係に向いている。いいぞ、と俊行は心の中で呟いた。
「大山くんの方はどうなの?」今度は陵子の方から逆に聞き返してきた。
「え、僕もいないよ」俊行はそう答えながら、密かに陵子の表情を見た。そして胸をときめかせた。
 気のせいかもしれない。しかし俊行には、陵子が一瞬安堵の表情を浮かべたように見えたのである。
 もしかしたら、脈があるんじゃないか。俊行は初めてそう感じた。どちらにしろ、同じ学校ということしか接点のない男とこれだけ会話をしてくれるということは、少なくとも嫌われてはいないことの証明になる。
 これで、計画表の四分の三はいらなくなったな。俊行は、右ポケットの紙切れを指でいじりながらそう思った。
 二人は公園の遊歩道を歩いていた。この遊歩道は海岸につながっている。俊行の計画では海岸で告白する予定になっていたが、この分だと自然に海岸までいくことが出来そうだった。
 俊行は次に、陵子がどれほど自分を知っていてくれているのかを確かめようとした。
「龍崎さんはJリーグとか見る?」俊行はさりげなく聞いた。
「テレビでだけど結構よく見るよ。大山くんは観に行ったりするんでしょう? サッカー部だもんね」
 俊行は踊りだしたい衝動に駆られた。おれがサッカー部だということまで知っていてくれているのか。これは益々脈ありだぞ。おれも捨てたもんじゃないな。むひょひょ。
「この間の練習試合、最後、残念だったね」
「え、観にきてくれてたの」俊行は陵子の言葉に驚いた。
 先日の練習試合に出場した俊行は、終了間際に放ったシュートを外してしまったのだ。陵子は試合を見に来てくれていただけでなく、そのことまで覚えていてくれたのか。俊行の身体は、嬉しさで浮かび上がりそうになった。
「あれが入っていれば同点だったんだけどね」俊行は平静を装い、申し訳なさそうに頭を掻いて言った。
「ううん。大山くん最初から頑張ってたもの。いい試合だったよ」
 なんて嬉しいことをいってくれるんだろう。俊行は心の中で、嬉し泣きをした。
 試合の最初の方から、おれを気にかけていてくれたのだろうか。まさか、おれのことを本当に好きなんじゃないか。
 俊行がちらと陵子の顔を見ると、陵子はさっと目をそらした。
 ほら、恥ずかしがっているじゃないか。まさか、ほんとに、おれのことを……。
 俊行の顔は自然にほころんだ。しかし、ここで冷静さを失う俊行ではなかった。
 いや、待てよ。サッカー部の他の部員を好きだということも考えられるぞ。そいつ目当てで観に来て、たまたまおれが目に入っただけかも。そうでなくても、サッカー部のマネージャーと親しいだけかもしれないぞ。マネージャーの水野は確か二組だったな。龍崎さんと同じクラスじゃないか。そう考えると、おれの名前を知っていても何の不思議もなくなってくる。
 俊行は緩んだ顔を引き締めた。陵子に水野と仲がいいかを聞こうと思ったのだが、いい聞き方が思い浮かばなかった。俊行は必死に頭をフル回転させた。何かいい方法は……。
 次の瞬間、俊行の体も回転していた。
 考える方に夢中になりすぎたのだろう。俊行は何もないところでつまづいて転んでしまったのだ。「いてて……。ははは、転んじゃった。ははは」自分の格好悪さに混乱して笑いながら立ち上がろうとした時、俊行の足に鈍い痛みが走った。
「うっ」俊行は軽い呻き声をあげた。
 例の練習試合で、右膝を痛めていたのである。このことは誰にも話していなかった。去年も、同じ右膝を痛めて県大会に出られなかったという、苦い思い出があったからだ。今年は絶対に、来月に控えている県大会に出場したかったし、そんな重い怪我ではないと思っていた。
「お医者さんに行ったほうがいいよ」
 突然の陵子の言葉に、俊行は耳を疑った。「えっ、大丈夫だよ。転んだくらい……」
「この間の試合で足、怪我したんでしょう。無理しないほうがいいよ」
「どうして、それを……」
「一年の時も、試合中に同じところを怪我したもんね。それで県大会も……」
 俊行は言葉がでなかった。感動で身体全体が震えていた。陵子は自分のことをちょっとどころか、こんなに詳しく知っているではないか。誰にも言っていない足の怪我を、試合中に見ただけで気づいてくれたのだ。更に、自分はつい数日前に陵子の存在に気づいたばかりだと言うのに、陵子の方は一年前から自分のことを見ていてくれたらしい。
 少なくとも、陵子にとって自分は、ただ学校が同じだけの存在ではなかったのだ。慎重な俊行の頭は、ひかえめにそう思うにとどまっていたが、胸は嬉しさで一杯だった。
 俊行は陵子の顔を見た。陵子はちょっと恥ずかしそうな表情で俯いている。
 この顔は自分を意識している顔ではないか。そう考えている俊行の目を、突然、陵子の瞳が捉えた。
「あたしもっと大山くんのこと知ってるんだよ」陵子は意を決したように言った。「去年の学芸会の時、岩の役をやってたこと。サッカーの推薦入学でH大に行こうとしてること。誕生日は九月三日の乙女座で、血液型はB型」
 一気に喋り終わると陵子は、俊行の顔を見て頬を赤くしてニコッと笑った。
 俊行はその笑顔を見て、もう死んでもいいと思った。これでさすがの俊行も、陵子の気持ちに確信を持った。どう考えても、今日初めて喋った、ただ学校が同じというだけの男のことを、これだけ知っているというのはおかしい。
 もう計画表はいらないな。俊行はポケットの中のメモを握りつぶした。
 二人はいつのまにか海岸に出ていた。
 日没間近の海は、とてもロマンチックだった。静かに打ち寄せる波打ち際を、二人はゆっくりと歩いた。陵子は沈みゆく夕日を見て「きれいね」と呟いた。
 俊行は告白するタイミングは今を除いてない、と思った。
 相手の気持ちがもう分かったのだから、なにもこちらから告白することはないのではと思う人もいるかもしれない。だが俊行は、自分の気持ちは自分から素直にぶつけたかった。
 俊行は突然足を止めた。陵子は二、三歩あるいた後、俊行の方を振り返った。向かいあって立っている二人を波の音が包んだ。
 数秒間、二人は見つめあったままだった。その間に夕日は沈み、辺りは闇色に染まった。
 俊行が口を開いた。告白の言葉はストレートだった。
「龍崎さん。好きです。僕と付き合ってください」
 とうとう言った。
 俊行はある種の達成感を覚えた。その俊行の気持ちを象徴するかのように、大きめの波が音を立てて打ち寄せた。陵子の表情はは闇に隠れてよく見えなかった。しかし、俊行は期待に胸をふくらませて、陵子の返事を待った。
 あせることはない。今、ここからから二人の歴史が始まるんだ。時間はたっぷりある。俊行は目を閉じ、これからの陵子との日々を思い浮かべた。
 波の音だけの時間がしばらく続いた後、陵子が口を開いた。
「ごめんなさい。あたし、あなたと付き合う気はないの」
 それは今の俊行にとって、寝耳に水の言葉だった。驚いた俊行は、とっさに聞き返した。
「どうしてッ。おれの事を好きでないのだったら、なんで君はおれのことをあんなに知ってたんだ?」もう計画も糞もなかった。
 陵子は笑みを浮かべながら答えた。「あたしはあなたのことなら、もっと知ってるわよ。慎重な性格で、何をするにも細かく計画を立てること。小さい時犬に咬まれて、それ以来犬が苦手なこと。気が小さくて、夜、真っ暗にして寝られないこと。お尻に三角形の痣があること」
 俊行はドキッとして思わず自分の尻を押さえた。
「なんでそんなことまで知ってるんだ。水野に聞いたのか?」しかし、いくらなんでもマネージャーの水野が、尻の痣のことまで知っている筈がなかった。
「ふふふ。あなたに聞いたのよ」
「おれに? どういうことだ。おれは君にそんなことを話した覚えはないぞ」
 俊行はなんだか薄気味悪くなってきた。
 陵子は微笑みを浮かべ、黒い波間を見つめていた。「あたしはあなたと付き合って、あなた自身から直接いろいろな話を聞いたのよ」
「え、おれは君と今日初めて喋ったんじゃ……」
 俊行の頭は混乱した。おれはこの子と前に付き合ったことがあっただろうか。覚えがない。とすると、わざわざ顔を整形したのだろうか。
 俊行は突拍子もないことを考え出した。しかし、そんな筈はないことにすぐに気がついた。何しろ俊行は、女の子と付き合いらしい付き合いをしたという経験が、今までに一度もなかったのだから。
 陵子は答えた。「確かに、あたしとあなたが言葉を交わしたのは今日が初めてよ。でも、今日のあなたの告白を機に、付き合うようになるのよ」
 俊行は何がなんだか分からなくなった。さっき自分は、告白を断られたのではなかったのか。しかし、今度は付き合うと言っている。どっちなんだ。はっきりしてくれ。
 陵子は口元に怪しい笑みを浮かべた。「まだ分からないの? あたしはあなたと付き合った後の陵子なのよ。具体的に言えば、今から三年後の陵子なの」
 その言葉は、荒くなった波の音と共に俊行の耳に届いた。しかし、急にそんな奇想天外なことを言われても俊行には信じられなかった。
「そ、そんなこと……」
「信じられないって言うの? じゃあ、あたしがあなたについてこれだけ知っているという事実を他のことで説明できる?」
 確かに陵子の言う通りだった。
「でも、どうしてそんなことが……」
「あたしにも分からないわ。あたしは凄く悲しいことがあって泣いていたの。泣き止んで気がついたら、三年前のあたしに戻ってたのよ。心だけがそのままでね」
 俊行はこの異常な事態に複雑な気分だった。本来ならば、自分の告白はうまくいって陵子と付き合うことができたらしい。それ自体は喜ばしいことである。しかし実際はこの非現実的な事態によって、自分と付き合うべき現在の陵子は消え、三年後の心を持つ陵子が現れてしまったのである。
 二人はまた、無言のまま歩きだした。
「元に戻る方法はないのだろうか」俊行はポツリと陵子に呟いた。
 陵子は意外そうな顔をして答えた。「どうして元に戻る必要があるの」
「えっ、だって元に戻れば僕は現在の君と、君は三年後の僕と幸せにやっていけるじゃない」
「あなたは幸せかもしれないけど私は違うわ」
「えっ、どういうことだい。まさか、さっき言ってた凄く悲しいことってのは・・・」
 陵子は少しの沈黙の後、押し殺したような声で言った。「そうよ。あなたがあたしを捨てたのよ」
 それは、今の俊行にとって、到底信じられないことであった。「そ、そんな馬鹿な。君はおれの理想そのものなんだ。そんなことあるわけが・・・」
 そう言って陵子の顔をのぞき込んだ俊行は、ぎょっとして立ちすくんだ。陵子は数分前に見せた笑顔とは正反対の顔をしていた。
「三年経てばその考えも変わるってわけよ。ついに昨晩、あなたは一方的に別れを告げて私の前から去っていったのよ。他の女の許に! あたしは一晩中泣き通したわ。最初は悲しくて泣いてたんだけど、次第に悔しさと虚しさが込み上げてきたわ。自分はこの三年間、何をやってたんだろうって。あなたとなんか付き合わなきゃよかったってね。それで、あなたに告白される前からやり直したいって心から思ったの。そうしたら、気づいた時あたしは、三年前の自分の部屋で三年前の姿で泣いてたってわけ。泣き止んで窓から下を見たら、入り口にあなたがいるのが見えたわ。それで外に出てきたけど、あなたとまた付き合う気はないのよ。あたしはあたしで三年間の人生をやり直すわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」俊行は慌てていった。「そんなこと言われても、三年後の僕は別として、今の僕は君のことが誰よりも好きなんだ。君も三年間、僕を好きでいてくれたんだろう。だったら考え直して、もう一度チャンスをくれよ」一度も付き合っていない身でこういうことを言うのも変だが、仕方がなかった。
 陵子は俊行を見下ろすように言った。「ふん。三年後にあたしが同じ事を言っても、あんたは耳を貸そうともしなかったわ。それに、確かにあんたと付き合ってる間はあんたのことを好きだと感じていたような気がするけど、今となってはそれもホントかどうか自信ないわ。だいたい告白されるまで、あんたのこと全然知らなかったし。『犬、可愛いですね』って、わざとらしい台詞で声をかけてきたあんたが、ちょっと良さそうな人に見えたから付き合ったのよ。でも全然違ったわ。今思うと、あんたほどひどい男はいなかったわ」
 俊行は涙が出そうになった。当然である。死ぬほど好きな女と今日やっと初めて会話ができたと思ったら、自分のことをこんなにぼろ糞に言われたのだから。しかも、現時点では全く身に覚えがないことをである。普通に失恋するより惨めであった。
 俊行は泣きそうな声で訴えた。「それでも、三年間付き合ったんだろう。おれのことを好きだと感じてたから、三年間も一緒に居たんだろう」
「三年間我慢したと言う方が正しいわね。あなたはあたしによくこう言ったわ。『僕は君を世界で一番好きだ。君を幸せにできるのは僕の他に誰もいない』ってね。それはそれは情熱的な言い方だったわ。だからあたしもその言葉を信じて、いつかあなたと幸せになれるって思ってた……。でも、いくら待ってもあたしは幸せになれなかった! なぜだか分かる? あんたは口で言ってるだけで、全然あたしのことなんか愛してなかったのよ!」
「そんなことないよ。この気持ちは嘘じゃない!」俊行は本心からそう言った。
「じゃあ、今のあたしを見て! このあたしが幸せに見える?」
 二人は、激しい波の音と風の音が交互に訪れる崖の上に来ていた。陵子は、激しい風で乱れきった長い髪を気にかけることなく、ただじっと涙の奥から俊行を見つめていた。その姿を見て、俊行は何も言い返すことが出来なかった。
 陵子は続ける。「結局、あたしが愛したあなたはあなたの言葉の中にしかいなかったのよ。幻想だったのよ。あたしは三年の間、幻想が現実になるのを期待し続けたわ。そのために努力もしたわ。でも無理だった。逆に言葉の方が変わって、あんたはあたしをボロ屑のように捨てたのよ!」
 波と風の音が一段と激しくなった。
 俊行は愕然としていた。おれはそんなにひどい奴だったのか。
 自分はたった今まで、陵子に対する情熱では誰にも負けないと思っていた。しかしその情熱は、三年経っても陵子を幸せにすることのできない、まやかしの情熱であったらしいのだ。そのことは、目の前の三年後の陵子を見ていると、認めないわけにはいかなかった。
 しかし、俊行は今自分の胸に宿っている熱い気持ちを否定することはできなかったのである。
 俊行は泣きながら言った。「おれは三年後のことは分からない。三年後には確かに君にひどい仕打ちをするのかもしれない。しかし聞いてくれ。今、このおれの胸に燃えている君への気持ちは確実に存在するんだ。嘘じゃないんだ。頼む、信じてくれ」
 陵子は冷やかに言った。「それはあなたがそう思い込んでるだけだってのがまだ分からないの。あんたは自分のことしか考えられない人なのよ」
「そんなことない!」俊行は必死に叫んだ。
「じゃあ、さっきあんたが告白する前に、あたしに何を聞いたか考えてごらんなさいよ。自分のことばっかり気にして、一つもあたしのことについて聞こうとしなかったじゃないの」
 俊行は絶句した。
「あんたは最初からそういう人だったのよ。結局、あんたが好きなのは自分自身だけなんだわ」
「違う! おれは、死ぬほど君が好きなんだ」
「じゃあ、死になさい」陵子はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
 それは、一本の果物ナイフだった。
「な、何をするんだ!」
「見て分からないの。あんたを殺すのよ。会話から一つでもあなたの優しさを感じられたら、やめてあげようと思ったんだけど……」陵子はナイフを手にかざして、ゆっくりと俊行に近づいた。
「馬鹿なことはやめろ!おれが何をしたって言うんだ」俊行は後ずさりした。
「そうねえ。確かに今は何もしていないけど……、これからするのよ」
「やめろ。それだったら三年後のおれを殺せばいいことじゃないか。おれは関係ない」
「馬鹿ねえ。そんなことしたら、あたしが真っ先に疑われちゃうじゃない。何であたしが三年前に戻りたいと願ったか分からないの。あなたと知りあう前なら、あたしが疑われる心配はないわ。さあ、観念なさい」
 陵子の持ったナイフが、俊行めがけて走った。
「ひぃっ」ナイフは俊行の体をすれすれの所でかすめた。「や、やめろ!」俊行は無我夢中で陵子の体をはらいのけた。
 ことん。ナイフは陵子の手から地面に落ちた。
 俊行はすかさずナイフを拾いあげると、海へ投げ捨てた。
 俊行は安堵感から溜息をついた。まだ心臓が高鳴っていた。振り返ると、陵子は地面にうずくまって泣いていた。
「おれを殺したって、君が幸せになれるわけじゃないんだぞ」俊行はそう言って、後ろから陵子の肩に手を置いた。
「あなたが生きている限り、あたしの心は晴れないのよ!」陵子は泣きながら言った。
 俊行はどうしてやることもできないまま、崖下の海を見ていた。
 その時、陵子の右肘が俊行の右膝をとらえた。
「うっ」俊行はその場に崩れ落ちた。
 陵子は立ち上がると、俊行を見下ろしていった。「どうやら靭帯が切れたようね。ホントは来年の大会で切れる筈だったんだけど、ちょっと早くなっちゃったわね」
「うっ、助けてくれ……」俊行は、痛みに呻きながら懇願した。
「あんたがあたしにしたことに比べたら、こんな痛み安いもんなのよ」陵子は容赦なく、俊行の右膝を踏みつけた。
「うぎゃっ」骨の砕ける音がした。俊行は必死で陵子から逃れようと、仰向けのまま、手だけで後ずさった。「許してくれ……。もう二度と君の前に現れないから……」
「あたしがそれを、本当に望んでいると思うの?」陵子は追い詰めるように、俊行に近づいた。
「君は……、一体、僕にどうして欲しいんだ」俊行の背後は、崖淵であった。
「あたしはただ、あなたに愛されたかっただけなのよ!」
 陵子は思いきり、俊行の顔面を蹴飛ばした。
 俊行の悲鳴は波の音と一つになった。

 次の朝、海岸で一人の少年の死体が引き上げられた。
 その右手にしっかりと握られていたメモにはこう書かれていた。
 『死ぬ気でやれば悔いはない……』



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**作者からひとこと [#ra38734c]
 例によって、以前に書いたものに手を加えたものです。「ムジカ」3号のテーマが「恋愛」だったため書きました。
 読んでいただければ分かりますが、甘ったるい内容の恋愛小説では全然ありません。
 最後の一行は初出時とは変更はしてあります。
(1997/1/28)

**関連ページ [#h4b81637]
-あるショートショート

**初出 [#g71af495]
「ムジカ」第3号(1995年10月号)

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