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[[日本史]]
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*鎌倉時代の区分 [#tac2ce2a]
 鎌倉時代といえば、まず思い浮かぶのが源頼朝。しかし、実際に源氏が鎌倉時代を支配した時期はほんのわずかで、鎌倉時代の大部分は北条氏によって支配されていた。鎌倉時代は源氏時代ではなく、北条時代だったのである。
 お飾りの将軍の代わりに、政務を執り行っていた役職として有名なのは執権だが、実際に幕府の権力を握っていたのは執権ではなく得宗(北条氏の家督)だったと言っていい。
 そこで、ここでは得宗をもとに鎌倉時代の区分を行った。執権と得宗がほぼ一致している時頼までを北条執権期、時宗以後を北条得宗期とした。

-鎌倉時代の実権:天皇、将軍、執権、得宗の一覧表。

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*鎌倉時代の年表 [#fe96d16a]

**源氏政権期 [#qb65de80]
-1185:守護(警察職)・地頭(荘園管理)の設置
-1192:頼朝が征夷大将軍に


*鎌倉時代の人物 [#be65a889]



**北条時政 [#f9cd0536]
-もともと多くの娘をいろいろなところに嫁に出して、一族の繁栄を狙っていた。
--頼朝と政子も、時政が確信犯的にくっつけた?(血統のよい血を一族に入れたかった?) 源氏を利用して鎌倉幕府を成立させた黒幕は時政?
--通説では、罪人の頼朝と政子ができてしまって困ったが、政子にだけ特別に弱かった時政がしょうがなく許した……といったところ。
-梶原景時、比企能員、頼家、実朝と、立て続けに殺害。比企能員は頼家の妻の父。潰しておかないと北条氏に取って代わられるところだった。

**源頼朝 [#odcdf452]
-伊豆に流された頼朝には、政子よりも前に子どもをもうけた女性が。女性の父によって子どもは殺されてしまったそうだが、もしその子が生きていたとしたら面白い。後の時代の思いがけない人物が子孫だったりして。
-1199頼朝、落馬事故により死去。源平合戦に勝利し、天下をとった頼朝だが、その成功を感受する年月は意外と短かったのだ。

**北条時頼 [#ze90bb47]
-昔話「鉢の木」では、貧しい坊さんの姿で佐野の元領主に世話に。

**北条時宗 [#z1d40501]
-頭脳派でありつつ、結果的に北条幕府が滅びるきっかけをつくった人物。
-蒙古襲来
--蒙古襲来に際し、日本中が一致団結。北条氏をトップとする中央集権体制が確立。
--2度の襲来はなんとか撃退したが、3度目があるかもしれないということで、寺社の土地を没収し、強い武将を九州に配置。
--外的だったため、恩賞の土地がもらえなかった武士たちの不満は、鎌倉で変わらぬ贅沢な暮らしを送っている北条氏へと向けられることに。

*鎌倉時代メモ [#oedf5e9a]
-北条氏は、判断力や情報収集力に長けていたとのこと。また、徹底的に政敵を排除していったのに武士たちから恨まれなかった理由として、理にかなった公平・公正な政治を行っていたからという点が挙げられるとのこと。
-頼朝の死により、御家人たちは権力争いに突入。源平合戦で華々しく勝利を勝ち取った源氏の兵たち。しかし、合戦からほどなくして、血みどろの争いに突入。平氏に勝った余韻にひたっていればよかった時代は短かった。
-鎌倉幕府は全国を支配していたわけではない。支配地は1/5もなかったとのこと。守護・地頭を増やして、支配力を拡大していくことこそが鎌倉幕府の目標。
-承久の乱:武士が朝廷と刃を交えた前代未聞の戦争。長らく虐げられてきた武士がついに……という意味では、平安時代の初期の頃の武士から続く悲願がついに達成された戦争ともいえる。もちろん清盛の時代も含めて。
--後鳥羽上皇:文武の天才。源氏の血統が途絶えたことを機に、鎌倉幕府の滅亡を狙った。最初は実朝を引き入れて切り崩そうとしたが暗殺されてしまったので、義時討伐の院宣を出した。義時だけを滅ぼすことにより、鎌倉幕府の解体をはかった。
---義時は朝廷の西園寺から院宣が出るという情報を得て、鎌倉を封鎖。直接院宣を受け取った御家人が出ることを防いだ。
---政子の大演説。義時だけが討伐の対象であることは隠し、鎌倉幕府の滅亡を目論む不当な院宣だと訴えた。政子は『吾妻鏡』によって卑弥呼のように仕立て上げられた説。かたや、天皇に刃向かう原動力として演説は実際にあったとする説。


*参考 [#b61eb625]
-BS歴史館「鎌倉ミステリー 北条一族の陰謀 〜史上最強のナンバー2〜」(2012.7)◎