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[[日本史]]
[[奈良時代]]←平安&null;時代→[[鎌倉時代]]

*平安時代の時代区分 [#g0394974]

|CENTER:年|CENTER:期間|||h
|RIGHT:794|RIGHT:64|天皇親政時代||
|RIGHT:858|RIGHT:72|摂関政治初期|清和…良房|
|RIGHT:930|RIGHT:138|摂関政治成立期|朱雀…忠平|
|RIGHT:1068|RIGHT:99|院政時代|後三条が親政に転じる|
|RIGHT:1167|RIGHT:18|平氏政権時代|仁安2年5月宣旨|

*平安時代の年表 [#x9836326]

**天皇親政時代 [#ta40a3af]
-794&color(,#ffcccc){平安京遷都};
-809嵯峨天皇即位:兄平城天皇の病気により。
-810薬子の変(平城太上天皇の変):平城上皇が平城京遷都の詔を発布。二所朝廷。薬子は尚侍。尚侍廃止。代わりに設置された蔵人所の人頭に冬嗣が就任。
-814源潔姫(嵯峨天皇の娘)が良房の妻に:臣下の妻となった初の皇女。
-818弘仁格発布:死刑の廃止(1156保元の乱までの347年間)。
-833仁明天皇即位:嵯峨上皇が依然権力を持っていた。
-842承和の変:嵯峨上皇崩御。恒貞親王(皇太子)の家臣の謀反疑惑。良房の陰謀。自分のおいである道康親王(後の文徳天皇)を即位させるため。
-850文徳天皇即位:妻は良房の娘・明子。

**摂関政治初期 [#u5ce1b85]
-858清和天皇即位:文徳と明子の子(良房の孫)。3人の皇子をおしのけて、良房によって生後8ヶ月で立太子。文徳崩御に伴い、9歳で即位。実権は良房(事実上の摂政)。
-866応天門の変:良房摂政に(臣下初)。緊急。良房は清和天皇(当時17歳)の祖父。黒幕は良房?『伴大納言絵詞』
--当時の臣下
---No.1.太政大臣・良房:(3)逮捕をやめさせるよう、孫の清和天皇に懇願。「疑わしきを罰するならまず私を逮捕してください」(7)有力家臣が皆いなくなった緊急事態の中、摂政に就任。
---No.2.左大臣・源信(みなもとのまこと):(5)出仕拒否。
---No.3.右大臣・藤原良相(よしみ):良房の弟。(2)独断で源信逮捕の命を下す。(4)失脚。
---No.4.大納言・伴善男:(1)応天門炎上の犯人は源信だと訴える。(6)犯人との目撃証言が出て逮捕。
-887宇多天皇即位:関白設置。
-887阿衡の紛議:藤原基経を関白に任命するも、任命書にあった「阿衡」が名誉職の意もあったため、へそをまげた基経が自宅にこもってしまった事件。友人でもあった道真が手紙で説得。888基経がやっと出仕。当時は16人の公卿のうち、7人が藤原氏。
-891基経が死去し、宇多天皇が親政をはじめる:菅原道真の重用。菅原家は代々学者を排出した中流貴族にすぎなかったが、藤原氏の力を恐れた天皇に重用されて出世した。藤原氏トップの時平に迫る昇進を続ける道真。上級貴族のねたみと出仕拒否。
-894&color(,#ffcccc){遣唐使廃止};:菅原道真。
-901&color(,#ffcccc){昌泰の変};:道真が左遷。太宰権帥(ごんのそつ)。藤原氏(左大臣藤原時平)の陰謀。宇田&道真vs醍醐&時平。暗記法「『道真をくれい』と太宰府が」
-903道真死去
-930清涼殿落雷事件:菅原道真のたたり?


**摂関政治成立期 [#xf1d6389]
-969安和の変:左大臣・源高明が太宰府に左遷。この直後、11/18の公卿が藤原氏に。権力争いの場は藤原氏内部へ。
-1016&color(,#ffcccc){道長摂政に};:暗記法「色男の道長摂政に」
-1018道長が望月の歌を詠む
-11C初期 &color(,#ffcccc){紫式部『源氏物語』};:彰子(一条天皇妃、道長の子)の教育係。
-11C初期 &color(,#ffcccc){清少納言『枕草子』};:定子(一条天皇妃、道長の兄の子)の教育係。

**院政時代 [#s965deae]
***前院政期 [#ubf563b7]
-1068&color(,#ffcccc){後三条天皇即位};:親政に転じる。息子(後の白河天皇)が貞仁親王に。

***白河期 [#zb8ec8a0]
-1073&color(,#ffcccc){白河天皇即位};:20歳。白河時代のはじまり。
-1086堀河天皇即位:&color(,#ffcccc){白河の院政はじまる};。暗記法「院ハロー!白河院政こんにちは」
--5代目の藤原忠実はすぐには関白になれず。
-1107鳥羽天皇即位:白河の孫。堀河の子。
-1114殺生禁断令(1度目)
-1118平[[清盛]]誕生:正盛の孫。忠盛の子。((清盛ばかりが取り上げられるが、「平氏政権の基盤を築いたのは正盛と忠盛で、清盛はそれを受け継いだからこそ平氏政権のトップに君臨できた」という考え方もあるので、この2人を蔑ろにしてはいけない。)) 白河の子という説も。
-1120関白藤原忠実罷免:白河の許可を得ずに娘を鳥羽天皇の妃にしたため。
-1123崇徳天皇即位:白河のひ孫。鳥羽の子。白河の子という説も。
-1125殺生禁断令(2度目):各地から送られてきた漁網を京都御所前で償却。
-1129近江国の漁民を逮捕:見せしめのために厳罰に。
-1129白河法皇崩御:殺生禁断令の廃止。


***前平氏政権期 [#b826ce8d]
-1133忠盛、神崎荘への太宰府の臨検を排除。院宣を偽造。資金がないので院も黙認していた?([[→参考>http://gendai.ismedia.jp/articles/print/17775]])

-1156&color(,#ffcccc){保元の乱};:崇徳上皇vs後白河天皇(主導者は信西)。暗記法「いい頃だ。保元の乱を起こすには」「五郎がホゲ〜!保元の乱」
--藤原忠実の次男頼長(忠実に愛され氏の長者を譲られた/悪左府)vs長男忠通(20歳ほど年上、勘当された)。
---敗れた頼長が忠実の屋敷を訪ねたが忠実は面会せず(頼長は舌を噛んで死亡)。溺愛した息子を見捨てたのは単なる保身か。
--平忠正(清盛の叔父)・源為朝(義朝の弟)vs清盛・義朝。
--敗れた為義は息子の義朝に殺され、為朝は島流しの末切腹(切腹の元祖)。
--清盛は為朝に押されて退却するも長男の重盛が奮闘。謀略の清盛と武力の重盛のタッグ。
--平氏には恩賞が与えられたが、最大の功労者義朝には見返りがなかった。
-1159&color(,#ffcccc){平治の乱};:清盛vs義朝。暗記法「保元の乱の3年後」「清盛ゴックン、義朝を」
--義平vs重盛の息子対決も見所。
--さらわれた二条天皇と後白河法皇を、清盛側が奪い返す。
--清盛の継母・池禅尼のたっての願いで頼朝の命を助けたことが後に仇に。忠盛はもう死去していたため「お父さんが生きていたら私の言うことも聞いてくれるだろうに、いないときいてくれないのかい」と言われて、血のつながっていない継母だからこそ断れなかったという話も。
--同様に義経の母常磐御前に泣きつかれて義経の命を助けたことも後に仇に。清盛は女に弱い?

**平氏政権時代 [#pf34d569]
-1167&color(,#ffcccc){[[清盛]]が太政大臣に};:武士初。暗記法「いいだろな太政大臣武士は初」
--清盛は最終的には関白を目指していた?(関白になれば歴史的に見ても藤原氏と同等の地位にのぼりつめたことになる)
-1170殿下乗合事件:基房と資盛(重盛の子)の車を巡るトラブルに親の重盛が報復。「やりすぎ」「平家の悪行のはじまり」との世間の声。「平家物語」では清盛の仕業ということに改変。清盛と後白河のパイプ役だった重盛のストレス?
-1176平滋子病死:時子の異母妹。後白河の妃。高倉天皇の母。これを機に、清盛と後白河の関係が悪化。
-1177鹿ケ谷の陰謀;後白河近臣による平家打倒の陰謀。平氏による言いがかりという説も。「瓶子がたおれた」「瓶子が多すぎる」「瓶子の首をとればいい」
--多田行綱の密告により清盛が後白河を幽閉しようとする自体に。パイプ役の重盛がなんとか説得。清盛の信頼を失った重盛。平家派の武士vs後白河派の武士の緊迫した事態に。
-1174「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」平時忠(清盛の継室・平時子の同母弟)の言葉とされている。
-1179.7重盛死去(42歳)
-1179.10越前(重盛の知行国)が後白河法皇により没収:後白河はわざと平氏を刺激して反発させ、悪行を行わせることで打倒勢力の挙兵を促した? このしたたかさが頼朝に「狸」と呼ばれる所以。
-1179.11治承三年の政変:後白河幽閉。清盛の独裁体制に。
-1180打倒平氏勢力が皇族のもとに集結
-1181清盛死去:熱病で。平氏政権が長続きしなかった理由は、確固たる後継者がいなかったこと?

-1184一ノ谷の戦い:源[[義経]]の活躍。鵯越の逆落とし。畠山重忠は馬を背負って降りた?
-1185&color(,#ffcccc){屋島の戦い};:屋島は今は半島だが当時は島だった。天然の要害。本拠地に適していた。頼朝は西国から九州をまず手中に収めて、四国を孤立させようとしたが、山口の辺りで源氏軍は物資不足に。義経は屋島を直接攻めようと決意。嵐の中船を出し四国へ。背後の山中から奇襲を。「義経は軍勢を多く見せるために民家を焼き討ち。弁慶は臼で餅をついておわびに村人に配って回った」……という伝説。
-1185&color(,#ffcccc){壇ノ浦の戦い};:平氏の滅亡。鍵は安徳天皇と三種の神器の奪還。義経は熊野の豪族を味方につけ、四国に残った平氏軍に「平氏はもう敗れた」と言って捕虜に。船も調達。平氏500艘vs源氏840艘。当初は平氏優勢。先頭の弓矢部隊に義経退却。平氏主力の阿波水軍が寝返り(残党が捕虜になっているという情報戦)。平氏、安徳天皇の身投げ。三種の神器のうちの草薙の剣も水没。

*人物 [#p6ab972f]
-法然
--源智:法然の弟子で清盛の曾孫。重盛の孫。師盛の子。

*その他メモ [#sf318759]
-かな文字
-国風文化
-荘園
-宋銭:清盛が貨幣経済を日本に本格導入。
-武士は下級貴族が武装化して生まれ、院政の際に警固兵として登用されて勢力を伸ばした。朝廷、貴族の番犬として虐げられていた武士。勢力的には貴族を凌ぐものがあったので、反乱を起こせば勝てたのだが(中国の歴史ではそのような反乱が実際に起きている)、情報を貴族が握っていて、武士は自分たちの勢力がどのくらいかがわかっていなかったので動けなかったという説があり興味深い。平治の乱によって武士たちの催眠術がとけ、清盛も従三位に上がれたのだとか。貴族と武士の関係を考える上でとてもわかりやすい考え方だ。
-忠盛は唐物を貴族に寄進することで国司としての地位を得た。当時から日本人は唐物が大好きだったという。なぜ貴族は自分たちで貿易をしようとしなかったのかといえば、世襲が原則の貴族たちが一般から優秀な人材を登用する科挙の仕組みが日本に入ってくるのを恐れたからだという。世襲制は今の日本でも根深いが、早くなくなったほうが世の中のためだろう。今世襲制にこだわっている人は、平安時代の古い貴族の古いものの考え方から脱却しきれていないのだ。その後、武士の時代になっても世襲の流れは止まず、明治維新とその後の自由民権運動によって、時間をかけてようやく脱却していけるわけだから、世襲制の根深さは相当なものだ。
-清盛が宋銭を導入する前は、米や絹織物が物品貨幣として使われていたが、重かったり腐ったり価値が一定でなかったりして不便だった。宋銭の導入によって米と絹織物の価値が下がり、それらを蓄えていた貴族が没落した?
-経筒が清盛の時代に日本製の金属から中国製の金属に。宋銭を溶かして作った。鎌倉大仏も。元々はバラスト(船の錘)や経筒
-清盛の死後、宋銭の価値が暴落。清盛が死んだことで平家による貨幣の価値保証が薄れた? 飢饉による米の価値の上昇。平家は困窮し、家来等に給料が払えないように。武士の平家離れ? 宋銭を経済の価値とした平家に対し、かたや頼朝は土地を保証することで勢力を伸ばした。
-平氏が滅びた理由。
--経済戦略の失敗と、源氏との経済価値戦争に負けたから?
--平家の新しい経済改革に対する反発。
--治承3年の政変によって築かれた独裁体制に対する反発。

*参考資料 [#t71fb40c]
-さかのぼり日本史「平安時代の回」(2012.2)○ 戦国時代や源平合戦と比べるとマイナーなこの時代のエピソードがもっと有名にならないものかと思う。
-ザ・ナンバー2「平重盛」(2012.2)○
-BS歴史館「平清盛 勝利のカギは経済戦略!」(2012.4)◎