虚空の響き

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虚空の響き   玉生洋一

 爽やかな初夏の朝。  窓からは、緑の木々が風に揺れているのが見える。鳥のさえずり。妻の歌声。そんな中でおれは目を覚ました。  不快だ。おれはまず、そう感じた。何かがいつもと違う。  時計を見る。七時半。いつも通りの時間である。隣室からは朝食の匂いと共に妻の沙枝子の歌声が聞こえてくる。沙枝子のお気にいりの歌だ。あいつは何かというとこの歌を歌う。歌詞の方は大分怪しいのだが、自分の声が綺麗なのを知っているのだろう。実にのびのびと歌う。結婚して六年の間、変わらない朝の光景である。  昨日の酒が残っているのかな。おれも年か。そんなことを考えながらおれが起き上がるのと同時に、沙枝子が部屋に入ってきた。 「おはよう、あなた。今日もいい天気ね」六年間変わらぬ朝の挨拶だ。 「ああ、おはよう。今日の朝飯は何だい」そして、六年間変わらぬおれの返事。  沙枝子はいつも通りの笑顔で言う。「起きてからのお楽しみよ。さあ、早く着替えて。布団を干すわよ」  おれはベッドを降りると、服を着替え始めた。沙枝子は布団を干すためにバルコニーに出ると、また例の歌をうたいだした。  ネクタイを締める手を止めておれは、ちらと沙枝子の方を見た。沙枝子は外の景色を見ながら物干しロボットのパネルを操作している。  おれの視線には気が付いていない様子で、歌をうたっている。

「何だって。奥さんの様子がおかしいだって?」丸山芳夫は驚いて叫んだ。  昼下がりの喫茶店。店内には数えるほどしか客はいない。丸山の向かいには、青い顔をした男が座っている。 「あの沙枝子さんか。どういう風におかしいんだい」丸山は男の顔をのぞき込んで尋ねた。 「いや、何と言えばいいか」男は丸山の顔を定まらない眼で見つめた。「だが、とにかくどこかがおかしいんだ」  丸山は返答に困って、椅子に深く掛け直した。久しぶりに会った学生時代の友人。深刻な顔で相談してきたのはいいが、これでは答えようがない。  男の名前は有川重彦。彼は、学生時代から悩みやすい性格であった。何かひとつのことが気になると、頭からはなれないタイプである。人のいい丸山は、よく相談にのったものだ。相談といってもたいしたことはない。もともとの悩みからして、たいした悩みではないのだから。世の中には、その日の食事に困っている人もいる。そんな人から見たら、親からいくらかの遺産と家を受け継ぎ、その家に美人の妻と暮らしている重彦など、何の悩みもない人種に映るに違いない。  重彦はコーヒーを一気に飲み干すと、深呼吸をした。少しは落ち着いたようである。丸山が促すまでもなく、徐々に喋り始めた。 「君はある日、よく知っている人間がまるで別人のように感じたことはないか」 「どういうことだい」丸山は、いぶかしげな眼で重彦を見た。 「一カ月前のことだ。おれは朝起きて、沙枝子と朝飯を喰った」 「その時の奥さんの様子がいつもと違ったのか」 「いや、いつもと同じだった。飯の味付け、喋る話題、すべていつもと変わらない。だが、何かがおかしいんだ」  丸山は困った表情で溜息をついた。  重彦はさらに続ける。「おれは、何がおかしいか分からないまま仕事に出掛けた。家に帰ると違和感は消えていた」 「よかったじゃないか」 「だが、その三日後の朝、おれはまた違和感を感じたんだ。今度は何が違うかもはっきりと分かった。表面上は、いつもの沙枝子だ。しかし、心がないんだ」 「心がない?」 「そうだ。笑顔で会話をしていても、おれには沙枝子の心がここにないのが分かるんだ。君も知っている通り、おれと沙枝子が結婚してからもう五年もたつ。五年間、おれは沙枝子のことを見て暮らしてきた。沙枝子のことは誰よりも分かっているつもりだ。そのおれが言うんだ。間違いない。最近の沙枝子は……沙枝子じゃない」 「おいおい。莫迦なことをいうな。じゃあ、今の沙枝子さんは誰かの変装だとでもいうのかい」 「そういう訳じゃない。だが……」 「だったらいいじゃないか。君の気のせいだよ。結婚して五年もたてば、そういう時期もあるさ」  丸山はなだめるようにそう言ったが、効果はなかった。重彦は敵でも見るような表情で丸山の丸眼鏡を睨んで言った。 「おれが沙枝子に飽きたって言うのか。違う! おれは今でもあんないい女はいないと思っているんだ!」 「おいおい。言ってくれるじゃないか。そんなこというけど子供はまだなのかい。子供でもできれば……」 「女房の仕事の関係で駄目なんだ」 「ああ、そうか。奥さんは確か、何かの技師をしていたんだっけ」 「ロボットの技師だ。アサヒ精機に勤めているんだ。家庭用のロボットを開発する会社さ」 「そうか。最近普及している、物干しロボット。あれを開発した会社だろう。うちでも使っているよ。おい。どうした」  重彦は口をぽかんと開けたまま、眼を大きく見開いている。丸山が心配そうに覗き込むと、重彦はぽつりと呟いた。「そ、そうか。分かったぞ」 「何が分かったんだ」  重彦は声を押し出すように言った。「沙枝子はロボットだったんだ」  丸山は何も言い返せなかった。こいつは何を言っているんだ。  重彦は尚も続ける。「そうだと考えれば、すべて説明が付く。あの冷たい声。明るさと平静を装いながら心ここにあらずの喋り方。あれは機械だ。機械人間だ」重彦は興奮してテーブルを叩いた。 「まあ、まあ、落ち着け。まあいいから一秒考えてみろ。何で沙枝子さんがそんなことをして君を騙す必要があるんだ。研究の実験のためか」 「そうだ。そうに違いない。人間そっくりのロボットを作ることは、沙枝子の大学院での研究テーマだった。アイツはとうとうその研究を始めやがったんだ。おれを実験台にして! 自分をモデルにした試作品の機械人間と時々入れ替わっては、おれがどういう反応を示すか記録してやがるんだ」 「バカな。現在の技術でそんなことができる訳がないだろう。もしできたとしたら……、大スクープだ」丸山は新聞記者なのである。 「そうだ、君に頼みがある。アサヒ精機が今どんなものを開発しているか、探ってくれないか。おれだと妻に怪しまれるが、新聞記者の君なら大丈夫だろう」 「バカを言え。君の妄想になんか付き合っていられるか」 「そこを何とか頼むよ。もちろん、お礼もする」重彦の眼は真剣である。  丸山は仕方なく言った。「アサヒ精機がそんなものを開発しているかどうかはっきりすれば、すっきりするんだな。分かった。暇を見て調べておくよ」 「すまん。恩に着る」重彦は、弱々しいが少しほっとしたような笑みを見せた。  やれやれといった調子で席を立った丸山は、こうつけ加えた。「余計なお世話かもしれないが、このことはおれ以外の人には喋らない方がいいと思うよ。これだと思われるからな」  丸山は自分の頭の上で人さし指を回転させて見せた。  

   おれの沙枝子への疑惑は、それから益々深まるばかりだった。  沙枝子は、時々ロボットと入れ替わっている。こう考えると、辻褄の合うことがたくさんあった。例えば最近、沙枝子が忘れっぽいということ。これは本物と沙枝子との間で、記憶の交換がうまく行われていないからではないか。その他にも、思い当たることは幾つも出てきたのである。  その日おれが家に帰ると、沙枝子はすでに帰宅していた。 「お帰りなさい。あなた」沙枝子は笑顔でそう言った。言い方はいつもと同じだ。だが、おれにははっきりと分かる。  これは沙枝子じゃない。機械人形なのだ。うまく沙枝子の喋り方を真似してはいる。だが、六年間一緒にいたおれの眼は誤魔化されないぞ。今までの例からいっても、おそらく、沙枝子の帰りが早かった日は、機械人形と入れ替わっている日なのだ。  それにしてもよく作ってあるものだ。肩先まで伸びた艶のある黒い髪。白く、血色のいい肌。少し茶色がかった大きい瞳。とても外見だけでは見分けることはできない。 「すぐお食事にするわね」と言うと、沙枝子はキッチンに消えた。そしてすぐに、調理ロボットの動作音と共に沙枝子の歌声が聞こえてきた。  おれが最初に沙枝子に違和感を感じたのは、この歌声だった。今になってみると、その理由がはっきりと分かる。アナログレコードとCDの違いだったのだ。おそらく、機械人形の声は、沙枝子の声をデジタルサンプリングしたものを加工しているのであろう。どんなにサンプリング周波数を上げても、生の声とデジタル処理された声とでは微妙な違いが出てくるものだ。いくら機械を人間に似せようと努力しても、限界があるのである。もちろんそれは、丸山を始めとする一般人には到底分からない微々たる違いなのかもしれない。  しかし、昔から音楽にうるさいおれの耳は騙されない。今、キッチンから流れてくる歌声は、確かに沙枝子の声、沙枝子の歌い方だ。人間の沙枝子そのものである。だが、その歌声がおれに及ぼす影響は全然違う。本物の沙枝子の歌う声は、おれを安らかにしてくれる。しかし、今聞こえているこの歌は、おれにとって雑音でしかない。確かにいい声だ。だが、どこか無機質的なものを感じるのである。  すべてにおいてそうだ。 「さあ、できたわよ。いただきましょう」この声も。 「ほら、新聞読みながらだとこぼすわよ」沙枝子の喋り方をまねしやがって。 「あら、最近おなか出てきたんじゃない」余計なお世話だ。 「ねえ、健康診断受けないの。心配だわ」ふん。心配なんかしていない癖に。 「もう、残さずにちゃんと全部食べてよ」うるさい。黙れ。この、機械人形め。  

   丸山は店に入るなり、ひと目で重彦を見つけた。  重彦はひどく難しい顔をして、正面の空間を見つめている。近寄り難い雰囲気が周囲を漂っている中で、丸山は黙ったまま正面の椅子に腰を降ろした。 「やあ、待ってたよ」重彦は、少しだけ表情を明るくした顔でそう言ったかと思うと、また黙って空を見ている。  丸山は少し拍子抜けして言った。「おい、例の件、ひと通りあたってみたけどそんな話はどこからも出てこなかったよ」 「え。例の件って何だっけ」重彦は他人事のように言った。  これにはさすがの丸山も少し憤慨した。「忘れたのか。アサヒ精機が人間型ロボットの開発をしているんじゃないかって話だよ」 「ああ、そのことならもういいんだ」 「もういい? ノイローゼが治ったのか。良かったじゃないか」 「そうじゃない。おれは、……決定的瞬間を見てしまったんだ」 「見た? 何を?」  重彦はおうと呻き声を洩らすと、頭を抱えて呟いた。「さ、沙枝子が……、ロボットと入れ替わるところだ……」 「何だって」丸山は驚いて重彦を見つめた。 「……その日、おれはいつもより早く家に帰ったんだ。家の近くまで来た時、一台の車がおれの目の前を横切った。その中には沙枝子が男と一緒に乗っていたんだ。驚いたおれは追いかけようと、家のガレージへと走った。そうしたら家にはすでに沙枝子がいたんだ。分かるか。沙枝子はおれのところにロボットをおいて、自分は男と浮気しに行ったんだ」  丸山は憐れみの表情で重彦を見た。この、興奮し切っている男をどうにかなだめなければならない。「男の顔をはっきり見たのか。奥さんの会社の人かもしれないじゃないか」  重彦は、黙って首を横に振った。「でも、分かるさ。おれは何故、沙枝子がロボットと入れ替わったりしているのか考えていた。研究のためだけじゃないような気がしていた。ふふ。その時やっと分かったよ」重彦の眼はすでに正気さを欠いている。「沙枝子は自分そっくりのロボットの開発に成功したのをいいことに、それを浮気をするために使っていたんだ!」  丸山は我慢できなくなって叫んだ。「いい加減にしてくれ。もっと普通に考えられないのか。大体、今の技術で君の言うような精巧なヒューマノイドが作れる訳がないだろう。実際、僕が調べたところ、そんな話はこれっぽっちも出て来なかったんだ。いいか。これっぽっちもだ。いくら極秘事項だからって噂ぐらいは出てもいい筈だろう。だがそんな噂も一切なしだ。ちゃんと、この事実を認めるんだ。男と車に乗っていたのだって単なる見間違いだろう」  重彦は丸山の言葉が、全然耳に入っていない様子だ。  丸山は続ける。「いいか。君たち夫婦は、倦怠期なんだよ。長く一緒にいれば、相手の違う面も見えてくる。逆に、今までと変わらないことに、妙に違和感を感じることだってあるさ。これは別に特別なことじゃない。全部の夫婦に起こり得ることなんだ。それを何だ。子供じゃあるまいし。ロボットだって。そんなわけないだろう」 「いや、沙枝子の様子は絶対におかしいんだ。あいつは時々、別人のようになる。機械人形と入れ替わっているに違いないんだ」  丸山は、もう付き合っていられないと言った表情で言った。「いいか。奥さんだって仕事をしているんだ。疲れている日もあるさ。君だってそうだ。君も疲れているんだ。こういう言いかたは何だが、今度、病院で見てもらった方がいいんじゃないか」  店内は静かだった。丸山は自分の声が大きくなっていることに気づいて、咳払いをした。  重彦は、難しい顔をして何やら考えている。そして一言呟いた。「沙枝子はロボット、なんだ……」  丸山は声を落として言った。「そんなに言うなら、奥さんに直接聞いてみればいいじゃないか。お前はロボットを身代りにしては浮気をしているだろうって」 「そんなことをしたって、うまくしらを切られてしまうに決まってるさ」  丸山は投げやりになって言った。「じゃ、マインドスコープでも使うか」 「マインドスコープ? なんだそれは」 「知らないのか? 一種の嘘発見機さ。今じゃほとんどの犯罪者はこの機械のせいで取り調べもなく有罪になるんだぞ」 「そんなものがあるのか」 「まあ、もっとも、警察にしかないがね」 「何だ。それじゃあしょうがないじゃないか。……まあいい。おれにもっと簡単な考えがある」 「考え?」丸山は不安げに聞き返した。  

   おれの考えとはこうだ。  沙枝子に浮気の事実を認めさせるためには、証拠を掴まなければならない。そのために一番手っとり早いのが、沙枝子が機械人形と入れ替わっている時にそれを暴くことだ。例えば、機械人形の沙枝子をどこかに隠してしまったら、本物の沙枝子はどうするだろう。家に帰るに帰れなくなるだろうし、もし様子を見に帰ってきたりしたら、機械人形を突き付けてやればいいのだ。むひひひひひ。 「今帰ったぞ」おれは家に着くとすぐに、今日の沙枝子は人間か機械かどうかを見極めようとした。 「お帰りなさい。あなた」沙枝子は、あい変わらず笑顔で出迎えてくれる。  違和感がない。これは人間の沙枝子だ。  不思議なことに人間の沙枝子に対して、おれはさほどの憎悪を感じることはなかった。丸山はおれ達のことを倦怠期だと言ったが、これが倦怠期ではないことの証明になるだろう。確かに沙枝子が浮気をしていることはくやしい。しかし、その憎悪は機械人形の沙枝子の方に向けられるようであった。機械人形の沙枝子と接している時は、本物の沙枝子は浮気の最中な訳だ。そう考えると、何でおれは機械の相手をしなければならないんだという気持ちになるのである。人間の沙枝子が傍にいる時は、少なくとも浮気の最中ではないから、安心感があった。 「今日は久しぶりに、二人でお酒でも呑まない?」  おれが全部お見通しだということも知らずに、こんなことを言ってくるところが、可愛くさえも思えた。 「ああ。呑もうか」 「うれしい。早速準備するわね」  その晩おれたちは酒を呑み、気持ちの良い一夜を過ごした。その時おれは思った。おれは、人間の沙枝子といることが出来れば幸せなのだ。浮気なんて、大した問題じゃない。人間であれば他になにもいらない。だからそばにいてくれ。沙枝子。  だが、次の晩。おれを出迎えたのは機械の沙枝子であった。 「お帰りなさい。あなた」沙枝子は、あい変わらずの笑顔で出迎えてくれた。  だが、おれはぞっとするような違和感と嫌悪感に襲われた。機械だ。のこのこと、おれの前に現れやがった。  おれがどうしてやろうかと思ったその時、機械人形は言った。 「今日は久しぶりに、二人でお酒でも呑まない?」  何だ。こいつ、昨日とまるで同じこと言ってやがる。さては調整ミスだな。昨日の本物の沙枝子の記憶をインプットするのを忘れやがったんだ。こいつがロボットだっていう、これほど確かな証拠はない。おれは、試しに昨日と全く同じ返答をしてやることにした。 「ああ。呑もうか」 「うれしい。早速準備するわね」  さすがに精巧に出来ているだけのことはある。昨日の本物の沙枝子とまるで同じ返事だ。このままおれが昨日と同じ行動をとれば、この機械人形は昨日と同じことを繰り返すのだろう。  だが、機械が人間と同じことをしてくれても、おれはちっとも嬉しくないのだ。酒の準備をしている機械人形の歌がキッチンから聞こえてくるが、耳障りなだけだ。人間の形をしたものがうたっているが、あれは人間じゃない。だからといってオーディオ機器という訳でもない。なんにもない空間から流れてくるようで、何とも嫌な感じである。  おれは、昨日とはうって変わって最悪の気分で酒を呑んだ。はたから見れば、夫婦が仲良く酒を呑んでいるように見えるのだろう。だが実際には、おれは今部屋にひとりきりなのだ。ひとりで酒を呑んでいるに過ぎないのだ。  隣にいる機械は、昨日の沙枝子と同じように呑み、酔っぱらい、そしておれに唇を重ねてきた。  このやわらかな感触。とても作り物とは思えない。良く出来ているもんだ。  少し酔っていたおれは、機械と共にソファに倒れ込んだところで我にかえった。  こいつは機械なのだ。今、おれはこの部屋にひとりでいるのだ。ひとりで一生懸命、機械にサービスしてどうする。バカらしい。今ごろ本物の沙枝子は、同じことを生きた人間を相手にしているのだ。  急におれは、今おれの腕の中にある機械に対して、凄まじい憎悪の念をいだいた。この、まとわりつくんじゃない。おれはとっさに、傍にあったアイスピックを手にすると、機械の頭部に勢いよく突き立てた。  ずぶり。  見事に突き刺さった。  そして……  耳を突き刺す短い悲鳴。吹き出る大量の真っ赤な血。苦痛に硬直する手足。  気がつくと、おれは紛れもない沙枝子の死体に抱かれていた。  なんてことだ。  沙枝子はロボットなんかじゃなかったんだ。全部おれの妄想だったのか。とんでもないことをしてしまった。  沙枝子のことを冷たく感じたのも、歌が無機的に感じたのもすべておれの気のせいだったのか。  なんてことだ。  動かなくなった沙枝子の身体の下から抜け出したおれは、茫然として立ち尽くした。  ……まてよ。では、沙枝子が昨日と同じ行動をとったのはなぜだ。そして、おれが昨日と同じ行動をとっても、全然不思議そうな素振りは見せなかった。なぜだ。  その時だ。キッチンの方から歌声が聞こえてきた。  沙枝子の声だ。  間違いない。この温かい声。人間の沙枝子の声だ。 「沙枝子」おれは叫ぶと、キッチンに飛び込んだ。  そこには沙枝子がいた。  目から涙を流しながら、歌をうたっている。 「沙枝子。生きていたのか」どういうことだ。さっきおれが殺した沙枝子は、血が出るほど精巧に作られたロボットだったのだろうか。  沙枝子はまだ歌をうたい続けている。おれの心を安心させてくれる歌声だ。今、おれの目の前にはおれの望む沙枝子だけがいるのだ。おれの望まない沙枝子は、おれがこの手で殺した。 「沙枝子。お前は本物の沙枝子なんだろう。頼む、返事をしてくれ」おれは沙枝子に歩み寄ると、沙枝子を抱きしめた。確かに、本物の沙枝子だ。おれにはこの沙枝子がいてくれさえすればいい。浮気をしていようが。ロボットを作っていようが……。  おれに抱かれると沙枝子はうたうのをやめ、ただ泣くだけだった。おれは何も言わずに沙枝子を抱きしめ続けた。もう離したくない。心の底からそう思った。沙枝子はいつのまにか泣き止んで、静かになっている。  寝てしまったのか。それにしては様子がおかしい。息をしていない。 「沙枝子」おれは沙枝子の顔をのぞき込んだ。  そこには、あの美しい沙枝子の顔はなく、涙で濡れた鈍く光る錆色の塊があるだけだった。おれが揺さぶると、それは「ガ」と大きな音をたてた。そして、完全に停止した。  その瞬間、おれはすべてを理解した。  沙枝子はロボットと入れ替わっていた。これは事実だ。おれも分かっていた。  だが、逆だったのだ。おれが人間だと思っていたほうが機械で、機械だと思っていた方が人間だったのである。おれはアナログレコードとCDの音質の違いを聴き分けたつもりになっていただけで、実際は全然分かっていなかったのだ。  おそらく、沙枝子はロボットに人間らしさを追求しすぎたのだろう。自分の人間らしい部分のデータだけを入力したのかもしれない。  その結果、機械が人間以上に、人間らしさを持ってしまったのだ。  おれはリビングに戻ると、人間の沙枝子の死体の前にうずくまった。そして、大声をあげて泣いた。涙はいくらでも出てきた。まさか沙枝子も、自分がロボットに間違えられて夫に殺されるなんて思ってもみなかったことだろう。そして、妻を殺したおれ自身のバカさ加減。すべてが、大量の涙を溢れさせた。  ひとしきり泣いた後、おれは力なく立ち上がり、机の引き出しから拳銃を取り出した。そして、銃口をゆっくりと自分のこめかみにあてた。  引き金をひく指は、ためらうことなく動いた。  

  「おい、大丈夫か」  丸山の声である。「大丈夫か。しっかりしろ」 「大丈夫よ。どうやらうまくいったようね」  頭にアイスピックを突き刺したまま沙枝子は起き上がると、無惨に頭の砕けた重彦を見下ろして微笑んだ。 「ちょっと血糊が多すぎたかしら」 「いや、名演技だったぜ」丸山もそう言って笑った。 「これで、このひとの財産はあたし達のものね」 「ああ。自分の拳銃を使っての自殺だ。万一マインドスコープでもばれる心配はない。しかし、こいつにおれ達が一緒にいる現場を見られた時はあせったぜ。何とかうまくいって良かったよ」 「あなたが、このひとの考えを事前に知らせてくれたからよ。この細工が出来なかったら、あたしは本当に殺されてたわ」沙枝子はアイスピックを手にとって言った。 「さあ、朝になる前にここを片付けちまおう。君はシャワーを浴びてこいよ」  沙枝子がバスルームに消えると、丸山は、床の赤い液体を拭き始めた。重彦から流れているものを残して。  バスルームからは、いつもと同じ沙枝子の歌声が聞こえてくる。  その歌声ほど、人間らしさに満ち溢れたものはなかった。  陰湿で、残虐で、そして非情で……。




評価

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作者からひとこと

 1年半以上前の作品ですが、わりと気に入っているので加筆修正しました。  原題は『虚空の歌声』で、私がかつて寄稿していた「ムジカ」創刊号に書いたものです。語呂が気に入らないので改題しました。なぜ、最初は「歌声」にしたかと言えば、「ムジカ」の初期には特集テーマというものが存在し、その号のテーマが「うた」だったためです。  読んだ人から「筒井康隆の影響をうけてるね」とよく言われました。しかし雰囲気としては、手塚治虫の短編『サスピション・第1話ハエたたき』(全集MT284)を意識しています。興味のある方はそちらもご一読下さい。 (1997/1/22)

初出

「ムジカ」第1号(1995年6月号)

小説>短編小説

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