暁の城

リレー小説

暁の城

1     須手英二

 カーン!  ゴングの音が鳴り響いた。  ヒロトは緊張していた。何しろプロになって初めての試合、つまりデビュー戦なのだ。  ボクシングを始めてから2年。その練習の成果が今、試されようとしている。 「頑張ろう」そう心で呟いたヒロトは足を踏み出した。  その瞬間ヒロトの全身に衝撃が走った。 「うッ!!」

2     TAM

 ヒロトは愕然とした。 「クッ、こんな大事な時に……。一体、どうしたらいいんだ」  ヒロトは振り返って、セコンドについているトレーナーの顔を見た。  しかし、トレーナーの梶はヒロトの異変には気付いていないようである。 「デビュー戦に当たってのことは一通り梶さんに教わった……。だ、だけど、こんな場合のことは……。クソッ、さっき一口だけ飲んだジュースがいけなかったのか!?」  ヒロトは急に下痢になってしまったのである。

3     須手英二

 その下腹部の痛みは耐え難いものだった。  それ以上にヒロトを悩ませたのが、今にも内から溢れ出そうなエネルギーである。  勇気を出してレフェリーにトイレと言ってみようか・・・。ヒロトは一瞬そう思った。  しかし、この観衆の前でか? 恥ずかしいじゃないか!  前座とはいえ、後楽園ホールの客席は半分ほどすでに埋まっていた。  何よりも問題なのは、すんなりとトイレに行かせてもらえるかどうかだ。  棄権とみなされてしまうのではないのか。  ヒロトはこんな場合のことを教えてくれなかった梶トレーナーの顔をギッと睨んだ。  ヒロトは絶対に負けるわけにはいかないのだ。リングサイドを見ると妹の香奈子が心配そうな顔でヒロトの方を見ていた。  香奈子には今まで迷惑を掛けっぱなしだった。絶対に負けるわけにはいかない。しかも下痢による棄権なんて・・・!  何とか勝たなければ!!  ヒロトが決意を堅くしたその時である。  対戦相手のバラモン松宮のローがヒロトの下腹部を捕らえた。 「ぐぶッ!!!!!」

4     Koyama Tetsutaro

「もうだめだ!」  ヒロトの腸がピクリ、ピクリと震え始めた。下腹部の激しいけいれんは観客席からも見て取れた。  すでに別の生き物となった彼の臍の周辺は出たり引っ込んだりとせわしない。 「止まれ、臍」  ヒロトは臍に命令したが、何の反応もない。次に英語で命じた。 「ストップ セサミ」  すると臍は仕方なしに返事をした。 「たしかに俺はゴマを所有しているが、それは俺ではない。なぜなら俺はお前ではないからだ」  ヒロトは何のことだか皆目わからなかったが、これ以上臍に命令するのは無駄だということだけは理解できた。  観客がボクサーの異変に気付き始めた頃、ついに彼はレフェリーに訴え出た。 「せんせえ、トイレに行ってきてもいいですかあ?」  しかし、ああ、何ということだろう。レフェリーの言葉はあまりにも無情だった。 「お前はトイレに行っていいかどうか聞いた。ならば私も聞こう。お前は私がダメだと言ったらトイレには行かないのか?トイレの許可を求めるのにその様な質問方法は適切か?」 「でもせんせい、僕のおなかはもう僕じゃないんです」 「まあ慌てるな。もうすぐ二時限目がおわる。それまで待ってなさい。そうすればトイレでもオランダでも好きなところに言ってしまいなさい」  薄れ行く意識の中、ヒロトの脳は中学時代のあの意地悪な数学教師のイメージだけは薄めることを忘れていた。

5     TAM

 ヒロトは夢を見ていた。  中学生の時の夢である。  その日はヒロトにとって学生時代最良の日であり、また最悪の日でもあった。  その日の朝のことである。桜の咲き乱れる中をヒロトは必死に走っていた。  遅刻しそうだったのである。ヒロトはやっとのことで遅刻すれすれで校門を滑り込んだ。  そこに彼女、サチコがいた。 「なんだ、君も遅刻?」  ヒロトは何となくそう声を掛けた。サチコの顔が走った後のように赤かったからである。  しかし、すぐにヒロトはサチコの顔が赤い本当の理由を知ることになる。  1時間目の間中、ヒロトは落ちつかなかった。  手を机の中に押し込み、そこにはさっきサチコから貰ったばかりのラブレターを握りしめていた。  どうしても顔が緩んだ。左前方に座っているサチコの方をチラチラと見てばかりいた。  ヒロトは女の子にラブレターを貰うなんてことは生まれて初めてだった。  これから新しい生活がひらけそうな予感がしていた。  しかし、その予感は見事に打ち砕かれた。

6     TAM

「5……!、6……!」  薄れた意識の中でヒロトはカウントを聞いていた。  こういう場合のダウンは何というのかな。レフェリーと話している途中に倒れたんだぞおれは……。  ヒロトはすでになげやりな気持ちになっていた。  もうどうでもいいや。そうだ。中学のあの日からおれの人生は終わっていたんだ。  2時間目のあの時、あの数学教師は「授業が終わったら行ってもいい」と言った。 「7……!、8……!」  後2秒で授業は終わり。良かった! 今度は間に合うぞ!  あの日の屈辱は、もう二度と味わいたくない。  嘲笑するクラス中のみんな。その中で絶対に目を合わせてくれなかったサチコ。ただただ情けなくて泣いていたおれ。  あんな目にあうことを思えばボクシングでの一敗なんて……。さあ、早く終わりにしよう。 「9……!」  その時である。ヒロトの耳にある声が飛び込んできた。 「立って! ヒロトくん!」  ヒロトは一瞬、自分の耳を疑った。  リングサイドから聞こえてくるその声は、紛れもないサチコのものだった。

7     須手英二

「おお〜〜〜〜〜っ」 会場全体が大きなどよめきに包まれた。 テンカウント寸前でヒロトが立ち上がったのだ。 「ヒロトくう〜〜ん」 リングサイドではサチコが声援を送っている。 ヒロトは興奮していた。 中学のあの日以来、おれは自分を人生に負けた人間だと思っていた。 しかし、勝負はまだ終わってはいなかったのだ! ここで目の前のバラモン松宮を倒しさえすればサッちゃんはおれのもとに帰ってくるのだ! 何がなんでも勝つ!! 「うわお〜〜〜〜〜!!」 大声を出して気合いを入れたヒロトは腹に力を入れてしまった。 「し、しまった! ストップセサミ!!!」 そう心の中で言うと、便意はなんとか収まった。 しかし、ヒロトは慄然とした。そして呟いた。 「ここで漏らしたりしたら、おれは人生に二度負けることになるのか・・・!!」 バラモン松宮はそんなヒロトに猛然と襲いかかってきた。

8     TAM

 バラモン松宮は容赦なくパンチを繰り出してきた。一度ダウンを奪っているバラモンは完全にKOを狙いにきていたのである。  ヒロトは必死になってそのパンチをよけ続けた。バラモンのパンチはそれほど速いものではなく、いつもならば簡単によけられるようなものだった。しかし、今のヒロトを追いつめるには十分過ぎた。  何しろヒロトは、ただじっとしているだけでも辛いのだ。激しい便意と腹部の痛みを感じているだけで、体力の大部分を消耗してしまうのである。  ヒロトは何とか便意と痛みを忘れ、体力の消耗を抑えようとした。畳の目でも数えて気分を紛れさせようとしたが、生憎ここにそんなものはない。しょうがないのでヒロトは観客の数を数え始めた。 「色々な人が見に来ているなぁ………………!!!」ヒロトが便意を忘れることに成功しようとしたその時、バラモンの右フックがヒロトの側頭部を捕らえた。だが、ヒロトはまるで痛みを感じることがなかった。  ヒロトは客席の中に、すべての痛みを吹き飛ばすほどの衝撃的な人物を見つけてしまったのである。

9     須手英二(飯田も世界奪取ならず! )

その人物とは・・・川本だった。 川本と言っても読者の皆さんには誰だか分からないかも知れない。 だが、ヒロトにとっては忘れようとしても忘れられない人物だった。 「か、・・・川本先生・・・」 そう。川本はあの日、ヒロトがトイレに行くことを許さなかった数学教師だったのだ。

10     堀不意留度(対損、耳咬まないで! )

川本は、ヒロトが自分の教え子だということに気付いてはいない様子だった。 大声を張り上げてバラモン松宮の名前を叫んでいる。 いや、おれのことを気付いているのに、わざと相手を応援しているんじゃ・・・。 川本のダミ声はヒロトの反骨心に火をつけた。

11     須手英二(辰吉はTVに出ないんじゃなかったの? )

「うおおおおおお・・・!!」 気がついたときにはヒロトの前にバラモン松宮が大の時になって倒れていた。 ヒロトの右ストレートがクリーンヒットしたのだ。 後楽園ホールは悲鳴のような大歓声に包まれた。

12     TAM(98/1/16(金)12:07:15)

レフェリーがヒロトを制止する。 鮮やかなTKO勝利! 悲鳴のような大歓声はまだ鳴り止まない。 いや、それは悲鳴のような大歓声ではなく、紛れもない悲鳴だった。 そしてその悲鳴が笑い声に変わった時、ヒロトは自分のおかれている状況に初めて気がつき、たちまち顔が真っ赤になったかと思うと、次の瞬間目の前が真っ暗になった。

13     yag(はじめまして)

やってしまった。 デビュー戦、初勝利、そんなものはもう関係ない。あの時素直に倒れていれば、、、ヒロトの目からは涙が流れ落ちていた。

14     TAM

「もうおれの人生はおしまいだ……」  ヒロトはがくりとその場に倒れ込んだ。  だが、そんなヒロトの肩をやさしく抱き寄せる人物がいた。  その人はあの時と同じ声で言った。

15     並木

「気にしなくていいんた。おまえは頑張った。」 セコンドについているトレーナーの梶先輩だった。  梶先輩とは中学で出会った。  ヒロトの一級上の梶先輩は、ヒロトの中学時代の苦い思い出も何もかも知っていた。  川本先生との事件も、サチコとの事も、誰よりも親身になって話を聞いてヒロトをここまで立ち直らせてくれたのも梶先輩だったと言っても過言ではないだろう。  ゆっくりと、ヒロトのまわりから音が消え去った。  梶先輩に助け起こされたヒロトは観客席をぐるりと見渡した。  サチコの姿は消えていた。  妹の香奈子は心配そうにヒロトを見ていた。  数学教師の川本先生はヒロトを指差して笑っていた。  ヒロトには、それら総てがスローモーションのように感じられた。 『真っ白に燃え尽きた』ってこんな感じかな?  ヒロトはボンヤリと考えていた。

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